学科の紹介

卒業生からのお祝いメッセージ

 2015年度ノーベル医学生理学賞を受賞されました大村 智先生は、昭和38年度~昭和39年度の2年間にわたり、山梨大学生命環境学部  生命工学科の前身である、山梨大学工学部  発酵生産学科で助手として教鞭をとられました。そして、8名の学生の卒業論文のご指導をされました。

そこで、この度の大村先生のノーベル賞受賞を記念いたしまして、生命工学科のホームページに大村先生の発酵生産学科(現 生命工学科)助手時代の思い出コラムのページを作りました。

なお、大村先生が当時ご指導された卒業論文の題目は、下記の通りです。
昭和38年度:
「Chelating Ion-exchange Resinによる重金属イオンの選択的除去」
「果汁及びブドー酒の流動性について」
「赤ブドウ酒の色調に及すペクチナーゼの効果」
「果汁の加工処理に於ける熱移動について」

昭和39年度:
「ブドウ酒の溶存酸素の除去について」(2名)
「ブドウ酒の酸化還元電位およびI.T.T.」
「ブドウの溶存酸素測定法」

 


発酵生産学科(現 生命工学科)教員時代(昭和38年度)の大村先生のお写真
(工学部発酵生産学科全員の集合写真)
写真の下段一番左が大村先生。﨑山 征雄様(昭和39年卒業)ご撮影。
 

また、大村先生のノーベル賞受賞に寄せて、発酵生産学科(生命工学科の前身)の卒業生からメッセージをいただきましたので、下記に掲載させていただきます(敬称略)。(随時更新いたします。)

 

大村先生への祝意

  
伊藤 俊洋(昭和39年卒業)
一般財団法人北里環境科学センター 理事長
(元 北里大学教授・副学長)

 大村先生、ノーベル賞ご受賞、誠におめでとうございます。私は、この度のご受賞は、医学・生理学賞と平和賞のダブル受賞に相当すると考えています。私は現在、相模原市の小学生達と、「地球人になる練習」を進めています。これは、人間が生涯続ける練習で、失敗を恐れずに、より良い地球人を目指して頑張ろうという試みです。子供達は、大村先生のことを、「最高に素敵な地球人」と考えています。これからも、さらに魅力的な知の世界を子供達に見せて下さい。

 

大村先生のノーベル賞受賞に寄せて


﨑山 征雄(昭和39年卒業)
不二装備工業株式会社(舞台設備業) 代表取締役
公職 習志野市国際交流協会 会長
(元 東洋カーボン株式会社(卒業時))
(大村先生の卒業論文指導学生(当時))

 大村 智先生のノーベル医学・生理学賞受賞は心躍るニュースでした。80歳の写真では思い出せませんでしたが、梨大時代の写真のアップを見て納得、私が卒業アルバム用に撮った若き大村先生の写真でしたから。1963年、醗酵生産学科、加賀美教授の五講座で、一年間卒論のご指導を受けた記憶があります。
 先生は大学時代もスキーの話、登山の話など印象に残るユニークな先生でしたが静岡県の土中の微生物から開発した薬品が感染症予防に絶大な効力を発揮。大村先生の卓越した非凡な着想、着眼、努力は敬服の文字しかありません。今でも近くでお付き合いしているのは醗酵同級生、山岳部で山に明け暮れていた伊藤俊洋君です。北里大学へ行き副学長まで務め、今でもハンデ5のシングルプレーヤーの大村先生とゴルフなど一緒に楽しんでいるとか。ただ伊藤君がゴルフ場で土壌のサンプルを集めた話は聞きませんでした。また今年は醗酵生産科卒、サントリーウイスキーブレンダ―の輿水精一氏の世界のウイスキーの殿堂入りも楽しいニュースの一つと記憶しています。

 

大村先生のノーベル賞受賞に寄せて


清野 啓(昭和39年卒業)
元 旭電化工業株式会社(現社名 株式会社ADEKA)
(大村先生の卒業論文指導学生(当時))

大村先生のノーベル賞受賞は本当にうれしく思います。
50年前に大村先生にご指導頂いたOF16の清野です。
思い出した先生とのなつかしい思い出を2つ書きます。

(1)卒論はブドウ酒、果汁のパイプ輸送に適する材質のパイプはなにか。
いろいろなパイプを使いその中を流体を流しストップウォッチで時間を測りその値からレイノルズナンバーを算出しさらに粘性挙動を比較した。
微分、積分を使い解析しますが、なかなかスムーズに進まず大村先生にご指導をうけ、よく勉強しました。卒業後現在まで数字で考え判断し考える基礎はこの卒論にあったとおもいます。

(2)微生物を顕微鏡で確認する実習の時シャーレのコロニーの化膿菌(スタフィロコカス アウレウス)をペニシリン(ペニシリウム クリソゲニウム)が溶菌する現象をみて顕微鏡の中で驚きで目が離されなかったのが今でも忘れられない思い出です。
この時大村先生がペニシリンはイギリスの首相チャーチルの命を救った。
ペニシリンは化学工場では高温、高圧でも上手く出来ない。それが微生物は常温でこの複雑な物質をつくる。このことが化学会社を希望する動機になった。
化学会社の入社試験で社長面接でペニシリンの話をし合格し入社した。
その後微生物に素晴らしさをいろいろと教えて貰った。

 

大村先生のノーベル賞受賞に寄せて

曽根 公平 (昭和39年卒業)
元 科研製薬株式会社 製造第一課長
(大村先生の卒業論文指導学生(当時))

 大村先生、ノーベル賞受賞おめでとうございます。
これからもご多忙と存じますが、お体には充分にお気をつけ下さるようお願い申し上げます。
受賞講演を楽しみにしております。

 先生のご指導で実験を進め卒論を仕上げたことが社会への第一歩となりました。
先生は梨大赴任前、理大大学院で最新情報の世界におられ、合せて、工業高校で若手技術者を育てていました。
先生は私達に実験を通して、数値の取り扱いを主に卒論に表現することを指導されました。

 今回の先生のご受賞で、私は五十年も前の卒論を業務の“元”となる標準書にしていたことに改めて気付きました。

 

大村先生のノーベル医学・生理学賞受賞の速報を目にして

加藤 正秀 (昭和39年卒業)
(公社)日本薬理学会学術評議員
(公財)書道芸術院無鑑査
長野県現代書芸協会審査会員(事務局次長)
蛍雪書道会常任理事

 大村先生のノーベル賞受賞のノーベルウィークが、賑々しく終わった。同窓の関係者として、ストックホルムでの栄誉ある賞の受賞の晴れ姿を拝し、特段の喜びを覚えたものである。
先生が、大学院を修了し直ちに助手として、また、研究者として奉職なされたのが、発酵の第5講座加賀美研究室であった。その意味では、最初の教え子は、卒論生のクラスメイトの4名と言うことになるのであろうか。小生は、生憎第2講座の櫛田教室と、別の研究室に属していた。
我々の0Fのクラス会は、毎年の如く開催されている等、実に生真面目集団である。その会合が、平成24年は浜名湖湖畔でもたれた。その折り、第5講座卒の曽根公平さんが、先生の“伝記”を持参なされた。北里大学で副学長であった伊藤俊洋さんが出席していたので、「大村先生のノーベル賞受賞は、いつ頃になるのか?」と質問したことを覚えている。答えは、「もう少し先のことだろう。」との事であった。それは、お互いの年齢を考えた時、何時まで待てるかでもあった。
そしてその時が、急転直下訪れたのである。今から2カ月前の晩秋の夕方であった。いつもは見ない民放を6時30分からチャンネルしていた。字幕に「大村智北里大特別栄誉教授 ノーベル医学・生理学賞受賞決定」が流れた。確認しようとしたが、字幕スーパーは直ぐに消えた。それでも予想していただけに、先生のお名前の「智」の文字が残像にあり、間違いなく大吉報であることを確信した。
朗報、吉報を7時のニュースの前に、お伝えしたい衝動に駆られた。北里の伊藤俊洋さんは、「本当に良かった。」と驚きと安堵の声であった。直ぐに第5講座の諸氏であろうとお電話するも崎山征雄、曽根公平、清野啓さんには繋がらず、ようやく岩国の村本三郎さんで「いやそれは大変良かった。」となった。先生の妹さんが、1学年下の1F元旭化成工業の高尾享司さんに嫁していたはずだと、急遽お電話することにした。残念ながらこちらも繋がらず不調に終わった。そうこうしている間に、ウルトラスーパー朗報は、7時のニュースで全国に流れることとなった。
高尾令夫人は、ストックホルムの授賞式に同伴出席者14名の1名として臨席していられた。先生の受賞後の誇らしい安らいだお顔と、御妹君の晴れ姿をテレビで拝し、兄妹愛と言うか慶びの素晴らしさを、更に覚えたものである。それはまた、日本にいる我々にとっても、誠に慶賀な心弾む授賞式であり、実におめでたく、心うきうきの1週間でもあった。
今年のノーベル賞受賞者は、当時の2期校の山梨大学、埼玉大学と、ローカル大学の出身者であった。ご本人たちの優秀さを置いても、何とか崩れの多かった地方大学の卒業生のなかには、モチベイションを高くして努力精進し、一期一会を大切に生かして高みに行き着く方もいるのだと、実に快哉の歳末になった。とにもかくにも、大村先生の医学・生理学ノーベル賞受賞は、日本の科学技術の栄誉であることに違いはないが、末席に繋がる者の一人にとっても、これまた大変幸せな大きな出来事であった。

平成27年乙未師走 信州箕輪にて

 

大村先生のノーベル賞受賞に寄せて


大杉 武司 (昭和40年卒業)
元 アイシン精機株式会社 リニア開発室課長
(大村先生の卒業論文指導学生(当時))

大村先生ノーベル賞受賞おめでとうございます。
先生は北里大学に行かれ、そこで微生物から難病を治す奇跡の薬を開発され何億人もの命を救われたと聞いて、驚いていましたが、この度ノーベル賞と、世界最高の賞を受賞され、心からお祝い申し上げます。
先生に指導を受けた山梨での1年が人生の幸運だったと思っております。
先生に卒業論文を御指導していただいた頃が懐かしく思い出されます。
昭和39年4月、4年次のゼミ第五講座(加賀美教授)で大村先生に卒論の指導を受けることになり、私は、部活(軟式テニス部:当時関東甲信越大会3連勝中)の為、卒論のスタートが遅れましたが、大村先生は笑顔で、淡々と実験計画の作成から解析、考察まで、休日返上で指導してくれました。先生のお陰で無事卒業でき、懐かしい思い出と感謝の気持ちで一杯です。有難う御座いました。
山梨大学醗酵生産学科に新しく赴任された先生は若く頼れる先輩の様なイメージで、さらにスポーツが堪能で、スキー指導、卓球大会などを計画され、なごやかな学生生活を送った思いがあります。
今年の4月の同級会で、先生が創立された韮崎美術館でお会いする予定でしたが、体調を崩されお会い出来ずとても残念でした。
先生、いつまでもお元気で後輩の成長を見守って下さい。

 2015年12月6日

 

大村先生のノーベル賞受賞に寄せて

吉村 雅次 (昭和40年卒業)
元 日本アイ・ビー・エム株式会社
(大村先生の卒業論文指導学生(当時))

今まで数々の世界の輝かしい賞を受賞され、今回はついに「ノーベル生理学・医学賞」受賞、おめでとうございます。

50年前梨大・発酵生産学科の卒論では大村先生から独創的で、楽しい、前向きの発想・環境での指導を受け卒業いたしました。
卒論以外でもスポーツ万能の先生から特にプロ並みの腕前のスキーを霧け峰で特訓を受けたことを今も鮮明に覚えております、有難うございました。

又今年4月には「韮崎大村美術館」を梨大同期クラス会で訪ねた際、お留守でしたが先生自らお土産として用意いただいた「美術する小冊子」と先生の書きしたためられた「私と美術との係り(女子美大発行)」をいただきました。
細かなところまでご配慮いただき有難うございました。

何時までもお元気でご活躍ください。

 

大村 智 先生 ノーベル賞受賞おめでとうございます。


東條 一元
元 サントリー株式会社
洋酒・ワイン生産部部長
(昭和37年卒業)


三浦 正宏
元 森永製菓株式会社
品質保証部次長
(昭和37年卒業)


望月 輝也
元 カネボウ株式会社
薬品技術部長
(昭和37年卒業)

 先生が山梨大学を卒業された後に入学し、先生が学校に戻られる直前に卒業したため、残念ながら、私たちは、直接先生のご指導を受けることはできませんでした。
しかし、先生が研究施設の整っていない環境で、工夫を重ねながら根気よく研究をされていたとの話をお聞きし、当時、我々も一本の試験管も無駄にせず何度も洗い また、綿栓は何度も打ち返し実験に使ったことを、そして、学生数の少ない学科であったため、担当教官からは、研究だけでなく、自然環境に学ぶという人間としての心構えを教えられ、社会に出てから大いに役立ったこと等を久しぶりに思い出しているところです。
先生におかれましては、これからも健康に留意され、研究生活を続けられることを希望しております。

 設備の不足するところでも、粘り強さと工夫を大切に、努力するのは、山梨大学の学風となっております。
これからも、私たちはこの山梨大学の精神を生かし、有意義な人生を送るよう努力をしたいと思います。
現在、学科で活躍中の先生方や後輩達には、第一講座の伝統であります酵母や放線菌の研究において、大村先生の“微生物は無限の可能性を持っている”という言葉を実践して行くことを期待しております。

2015年12月1日
醗酵生産学科(現・生命環境学部生命工学科)
第2回卒業生(第一講座)
東條一元、三浦正宏、望月輝也

 

大村智先生、ノーベル医学生理学賞受賞おめでとうございます

熊沢 義雄(昭和41年卒業、昭和43年修士卒業)
元 北里大学教授

 大村先生が山梨大学に在職された1963~1965年は、発酵生産学科の学生でした。
 1968年に大学院を修了し、北里研究所に入所し、細菌研究部の水之江公英先生の研究室に配属されました。大村先生は同じフロアーの抗生物質の研究室におられました。恩師の水之江先生はその後、所長をされ、米国留学中の大村先生に秦藤樹先生の後任として、北里研究所に戻るように要請され、その後大村先生を監事・副所長として抜擢されました。
 北里柴三郎先生が第1回のノーベル医学生理学賞を受賞できなかったのは誠に残念なことですが、「叡智と実践」というモットーを弟子に与えられました。北里先生の抗体(抗毒素)の発見は免疫学の金字塔になっており、①抗体の特異性はどのようにして決定されるか? ②抗体を自在に作り出して、医療に用いるという、大きな課題を20世紀の科学者に投げかけられました。①は利根川進先生が「遺伝子の再編成」によって特異性が決定されるという大発見をされました。②の「抗体を自在に作り出して、医療に用いる」という課題は、腫瘍細胞の「不死」とい性質と単一の特異性を持った抗体産生細胞クローンをハイブリッドにする技術をケーラー博士とミルシュタイン博士が発見し、ノーベル医学生理学賞を受賞されました。
 ローベルト・コッホ先生のお弟子さんであるエールリッヒ先生は抗体産生理論の「側鎖説」を提唱され、やはりノーベル賞を受賞されました。エールリッヒ先生のお弟子さんが北里先生の高弟の一人である秦佐八郎先生であり、そのお子さんが秦藤樹先生です。エールリッヒ先生は化学療法の父とも言われており、秦佐八郎・秦藤樹先生という研究一門を大村先生が継承され、ノーベル医学生理学賞を受賞されました。
 私が留学したドイツのマックス・プランク免疫生物学研究所の所長はノーベル賞を受賞したジョルジュ・ケーラー先生でした。研究所の公式セミナーで研究室を代表して発表した時、ケーラー先生から鋭い質問がされたことを覚えています。研究所の食堂(メンザ)では一緒になることもありました。
 私が在籍していた細菌研究部は細菌内毒素LPSの研究で有名であり、優れた先生方が世界中から集まっていました。私のボスはクリス・ガラノス先生であり、マックス・プランク免疫生物学研究所の初代の所長でもあるオットー・ウエストファール先生のお弟子さんでした。ウエストファール先生は北里研究所の客員部長もされていました。私はLPSに応答しないネズミを用いた研究を行っていました。当時はLPSの受容体が何か分りませんでしたが、ボスのクリスが米国のブルース・ボイトラー博士と共同研究を始めたところでした。ブルースを招待して一緒に食事をしたこともありました。その後、LPSの受容体がトル様受容体4(TLR4)であることをブルースが発見し、彼もノーベル医学生理学賞を受賞しました。
 ケーラー先生、ボイトラー先生、大村先生とノーベル医学生理学賞を受賞された先生方と一緒だったことは大変な名誉だと感じています。
 恩師水之江先生から、コッホ先生が発見された結核菌の防御抗原の研究をするようにいわれました。結核菌の防御抗原はコッホ先生のツベルクリンの研究で始まりますが、未だに明らかになっていない大命題です。京都大学の安平公夫教授の指導の下で、結核菌の菌体成分の研究で医学博士の学位を授与されました。40年前は薄層クロマトグラフィーで糖脂質コード・ファクターを一生懸命精製していました。、昨年の日本細菌学会の総会の講演で、コード・ファクターを構成するミコール酸に対する受容体について話されていたのを懐かしく拝聴しました。
 恩師の水之江先生から、北里研究所は私立の研究所だから、研究費を自分で稼がないといけないといわれました。その点、大村先生は研究費を集められて、多大な研究をされ、多くの研究者を育てあげられました。同じ山梨大学から北里研究所に入りましたが、水之江先生の期待に十分に応えられませんでした。その点大村先生は期待に十分お応えになって、ノーベル医学生理学賞を受賞されたことは本当に喜ばしい限りです。
 大村先生、ノーベル賞受賞おめでとうございます。