マウス精子を室温で1年以上安定して保存できる方法を開発-電力不要で維持費がかからない遺伝子資源の室温保存の可能性を示す- 2018年7月発表
生命工学科の大学院修士課程(バイオサイエンスコース)を2018年に卒業した鎌田裕子さん、同修士1年生(2018年7月現在)の伊藤大裕さんらのグループが、室温(机の引き出しの中)で1年以上保存したマウスのフリーズドライ精子から健康な産仔を作出することに初めて成功しました。この成果はイギリスの科学雑誌Nature姉妹誌の「Scientific Reports」(7月13日付け)にオンライン掲載されました。
Scientific Reports 掲載URL:http://www.nature.com/articles/s41598-018-28896-8
論文名:Assessing the tolerance to room temperature and viability of freeze-dried mice spermatozoa over long-term storage at room temperature under vacuum
著者 Yuko Kamada, Sayaka Wakayama, Ikue Shibasaki, Daiyu Ito, Satoshi Kamimura, Masatoshi Ooga and Teruhiko Wakayama
この成果は新聞等でも大きく取り上げられました。
本研究のポイント
○ 室温で1年以上保存したマウスのフリーズドライ精子から産仔を作出することに成功
○ 液体窒素も冷凍庫も使わないため、維持費のかからない新しい精子の保存方法になる
○ 保存場所を問わないため、机の引き出しの中でも保存可能であり管理しやすい
○ 動物の遺伝子資源も植物の種と同様に安全に長期間保全できる可能性を示した
1.概要
様々な動植物の遺伝子資源を保全することは、種の多様性を維持するために不可欠です。植物は、たとえ震災で電力の供給が途絶えても安全に長期保存を可能にするため、永久凍土のあるスバールバル諸島で世界中の種子を保存するプロジェクトが始まっています(注1)。しかし動物の生殖細胞や体細胞は、植物とは異なり液体窒素あるいは超低温冷凍庫が不可欠であり、維持管理費が膨大になるだけでなく、大規模な震災などで液体窒素や電力の供給が止まってしまった場合、すべての細胞は溶けて死滅してしまいます。
山梨大学の研究グループは、顕微授精やクローン技術による絶滅動物の復活や絶滅危惧種の救済技術の開発を行っていますが、その研究の一環として動物の精子の室温保存技術についても研究しています。本グループは1998年に世界で初めてフリーズドライで保存した精子から産仔を作ることに成功しました(Wakayama et al., Nature Biotechnology)。しかし室温では1か月しか保存できず、長期保存のためには冷蔵庫が必要でした。その後様々な乾燥方法(注2)が考案され、特殊な保存装置を使えば室温での保存期間を伸ばせることが分かりましたが、フリーズドライ技術は世界中で使われている最も一般的な方法であり、保存場所も問わないことから、フリーズドライで精子を長期間保存する技術の開発は重要なテーマとなっていました。
今回研究グループは、室温では短期間しか保存できない原因がアンプルビン内に混入した空気であることを突き止め、アンプルビンの非破壊検査などにより高真空アンプルビンを作製しました。このアンプルビンを室温で1年以上保存した後、精子のDNA損傷度や受精能を調べ、最後に胚移植を行ったところ、問題なく健康な産仔を得られることが分かりました。この方法は小さなアンプルビンを使用するため場所を取らず、冷凍庫どころか冷蔵庫も必要なく、維持管理コストがまったくかかりません。実際に実験では、机の引き出しの中で1年以上保存したマウス精子から100匹以上の産仔を得ることに成功しています。より長期間の保存の可能性については現在検討中ですが、1年間保存した精子からの産仔作出率は3か月間保存した場合に比べほとんど低下しなかったことから、長期間の保存は可能だと研究グループは考えています。今後、本方法の信頼性が証明出来たら、動物の遺伝子資源も植物の種子と同様に室温で安全に長期保存が可能になるだけでなく、毎年全世界で作られる膨大な数の遺伝子改変マウスの維持費や、不妊治療における精子の保存費の大幅削減が期待できます。
2.研究方法
(1) フリーズドライ精子の入ったガラスアンプルビンの作製
オスから採取した精子をガラスアンプルビンに入れて液体窒素で凍らせた後、凍結乾燥機に接続し、半日間凍結乾燥させてから真空状態でアンプルビンを閉じます(図1)。
図1.ガラスアンプルビンで保存されているフリーズドライ精子
ガラスアンプルビンは10㎝程度の長さで軽い。真空状態で封をしてある。
(2)室温保存が短期間で不可能になる原因究明
アンプルビンを水中で割り、真空であるはずのアンプルビン内に空気の混入があるのか測定しました。次に、あえて空気を混入させたアンプルビンを作り、その状態で保存した精子のDNAダメージ(注3)や産仔への発育率を調べました。
(3)高真空アンプルビンの作製について
アンプルビンの真空度を非破壊検査方法(テスラコイル漏れ検出機)(注4)で測定し、真空度の高いアンプルビンを選び出しました。また凍結乾燥機全体の調整を行い、高真空アンプルビンを効率よく作製できるようにしました。一方、アンプルビン内に脱酸素剤および除湿剤を加えてフリーズドライ精子を保存する実験も行いました。
(4)保存精子を用いた受精および産仔への発生能について
室温(机の引き出しの中)で1年以上(最長1年4カ月)保存したフリーズドライ精子について、DNAダメージを測定した後、顕微授精を行って受精卵を作製しました。得られた受精卵の一部はDNAダメージの検査にまわし、残りはレシピエントメスへ移植して産仔への発生率を調べました。
- 結果
(1) アンプルビン内の空気の混入、および発生阻害の原因。
ほぼすべてのアンプルビンにはその容積に対して1%から27%の空気が混入していました。わざと空気を混入させた実験から、空気の混入が発生阻害の原因であることが明らかとなりました(図2)。
図2.空気が残っているアンプルビンの精子で受精した胚は発生できない
左は真空アンプルビンで保存されていた精子で受精した胚。胚盤胞期まで発生する。右は空気入りのアンプルビンの精子で受精した胚。1週間程度の保存ですべての胚は発生を停止してしまう。
(2)テスラコイル漏れ検出器を用いて高真空アンプルビンを選ぶことで成績改善に成功。
テスラコイルは高電圧をアンプルビンに当てるため(図3)、その検出自体が精子にダメージを与えてしまう可能性が考えられましたが、調べた結果検出器による影響はありませんでした。高真空と判定されたアンプルビンであれば、室温で3か月保存しても精子は保存可能であり、顕微授精によって産仔を得ることが出来ました。一方シリカゲルを加え除湿した実験では最初の1か月間だけしか効果がありませんでした。脱酸素剤を用いた実験では逆に悪影響が出てしまいました。
図3.テスラコイル漏れ検出器
テスラコイルから放出される高電圧により、アンプルビン内の残存空気量を検出する。ほぼ真空であれば、わずかな空気分子が振動して発光するが、空気分子量が多いと発光しない。したがって発光したアンプルビンは高真空、発行しなかったアンプルビンは空気が混入していることになる。
(3)室温(机の引き出しの中)で1年以上保存した精子からの産仔作出に成功
テスラコイルで高真空アンプルビンを選び、机の中(図4)で1日、1か月、6か月および1年以上保存したフリーズドライ精子の品質を調べました。その結果、1年間保存した精子は1週間保存した精子に比べDNAにダメージが生じていることが分かりました(図5)。しかしそれらの精子を用いて顕微授精を行い、受精卵を借り腹メスへ移植した結果、1年以上保存した精子からも多数の産仔を得ることが出来ました。産仔率は1日保存に比べればやや下がってしまうものの、3か月保存と同程度の成績で(図6)、生まれた産仔の多くは健康でした(図7)。1年保存精子の実験は合計10回(10匹のオスの精子)行いましたが、9匹のオスの精子で産仔作出に成功したことから(表1)、再現性も非常に高いことが分かりました。
図4.机の中でフリーズドライ精子を保存
フリーズドライ精子の入ったアンプルビンは小箱に入れ、机の引き出しの中で保存した。温度や湿度は一切管理していない。
図5.1年間保存した精子にはDNA損傷が見られた
1週間保存した精子のDNA損傷度を1としたとき、1年間保存した精子のDNA損傷度は1.2程度に上がっていた(コメットアッセイ)
図6.1年間保存した精子による出産作出成績
1年間室温で保存した精子による出産率は、1週間保存精子に比べ下がっているが、3か月間保存精子とほぼ同じ成績だった。
図7. 1年間保存した精子から生まれた産仔
フリーズドライ精子を室温(机の中)で1年以上保存しても、それらの精子は正常に受精し、胚移植を行えばたくさんの産仔を得ることが出来る。
表1.1年以上室温で保存した精子による受精・産仔作出成績(個体別)
10個体で試みた結果、1個体(No 6)だけ失敗したものの、残りの9個体では1年以上室温で保存した精子から産仔の作出に成功した。
4.今後の期待
フリーズドライ精子は小さなガラスアンプルビン内で保存するため、軽くて場所を取りません。この利点を生かして、フリーズドライ精子を国際宇宙ステーションへ打ち上げ、宇宙放射線が精子DNAにどのような影響を与える実験が現在行われています(注5)。このように精子のフリーズドライ技術には、生殖細胞の新たな保存技術というだけでなく、基礎生物学の研究手段としての価値があります。たとえば、研究のため毎年たくさんの遺伝子改変マウスが作られており、その系統維持費は年々増加していますが、本方法が利用できれば維持費はかからなくなります。しかも、震災などで電力の供給が途絶えてしまっても、本方法は室温保存可能なためその影響を受けません。将来はスバールバル諸島で保存されている植物の種子と同様に、動物の精子も地球規模の震災が起こった場合に備えて保存されるようになるかもしれません。
しかし長期保存技術では、保存後に確実に産仔が得られるという信頼性を得ることが不可欠です。そのため今後は、より長期間保存しても確実に産仔が得られること、出産率は低下しないこと、産仔に異常は出ないことなどの結果を出し信頼性を獲得することが必要です。信頼性を得ることが出来れば、フリーズドライ精子の利用は今後ますます増えていくと思われます。
<補足説明>
※1 スバールバル種子貯蔵庫
ノルウェー領にあるスバールバル諸島において、世界中から価値ある植物の種子が集められ保存されています。震災などで電力の供給が止まっても永久凍土のため低温が維持できます。
https://www.regjeringen.no/en/topics/food-fisheries-and-agriculture/svalbard-global-seed-vault/id462220/
※2 様々な乾燥保存方法
フリーズドライは、試料を最初に凍結し、凍った状態のまま乾燥させる方法です。これに対し、試料を凍結せずに直接乾燥させる方法などが開発されています。しかしフリーズドライのように一般的ではなく、また保存方法も独自の方法が用いられています。
※3 精子のDNAダメージの測定
本実験では、精子のDNAダメージをコメットアッセイおよびγH2AX染色という方法で測定しました。コメットアッセイは精子DNAが損傷し断片化した場合、電気泳動でDNA断片の状態を測定する方法です。γH2AX染色は、精子が卵子と受精し受精卵の核となった際に、受精卵の内部で損傷したDNA部位が修復されるのですが、その際に付けられるタグを抗体で見つけ出す方法です。
※4 テスラコイル漏れ検出機
真空の製品に対して、出荷前に真空度を非破壊検査するために用いられている道具です。テスラコイルから放出される高電圧により、内部の残存空気量を検出します。ほぼ真空であれば、わずかな空気分子が振動して発光しますが、空気分子量が多いと発光しません。生物に対して用いられたことは無いと思われるため、本研究ではこの検査による影響も調べました。
※5 宇宙ステーションを用いた精子の保存実験
本研究グループは実際に国際宇宙ステーションを利用して、哺乳類の宇宙繁殖の研究を行っています。昨年には、宇宙ステーションでマウスのフリーズドライ精子を9か月間保存し、宇宙放射線が精子DNAにどのような影響を与えるのか調べる研究を発表しています。
プレスリリース「国際宇宙ステーションの「きぼう」で長期保存した精子DNAの正常性と宇宙マウスについて」平成29年5月18日発表。
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~twakayama/LSHP/Space%20pup%20press%20release%2020170523.pdf